本八幡の整体、風の整体院の岩田です。「気を遣いすぎて疲れる」というフレーズ、非常によく使われます。何に気を遣いすぎるのかと言えば、もちろん「他人」にです。人間は、人間の集まりである社会の中で生きています。自分と異なる「他人」がいる以上は、他人を意識して生活しなければなりません。逆に言えば、たくさんの「他人」の中で生活しているからこそ、「自分」という存在を考えられるのかもしれません。「他人」の種類によっても、気を遣う程度には強弱があります。職場の上司や同僚、部下の中でも、声をかけるだけでも緊張してしまうような相手もいれば、気を遣っているという意識をほとんど持たないくらい、フランクに接することのできる人もいるでしょう。特定の相手ばかりではありません。まったく面識のない相手と大事な用件で会わなければならないときなどは、程度の差こそあれ、動悸がしたり冷や汗をかいたり、緊張することもままあるはずです。こうした反応は、動物が未知の物体に遭遇したときに、警戒、威嚇、あるいは間髪入れずに闘争してしまうのにも似た、本能的な防衛反応と言えます。特定の苦手な相手、あるいはまったく未知の人物に対して身構えてしまうのは、仕方ないところもあります。しかし、対人不安はこれだけにとどまりません。実はわたしたちは、電車の中や映画館など、公共の場でも、なにかしら気を遣っていることが多いのです。混んでいる電車の中では、ドア近くに立っている人は、駅でドアが開いたらいったん外に出ないと、中の人が降りられません。これも、混み方によっては「外に出るべきか」「中にいるべきか」などと、頭と気を遣います。ベビーカーを電車内へ持ち込む際のマナーが、議論になることもあります。ベビーカーを畳んで電車に乗る、あるいは朝のラッシュ時にはベビーカーを持ち込まないようにしてほしいまどと、一部の乗客からはクレームがあるそうですが、混んでいるとわかっていても子ども連れで乗らざるをえないケースもあるはずです。この話を聞くと、子育て環境に非常に厳しい日本の状況にため息が出ます。特定の人物、あるいは不特定の人物にかかわらず、「気を遣って疲れる」の裏側には、対人不安、緊張が潜んでいます。「他人に迷惑をかけないか」という配慮が強すぎて、不安や緊張のレベルに達してしまっているのです。「気を遣って疲れる」のは、他人への配慮が行き届いている証拠なのですが、行き届きすぎているとすれば、自分がつらくなります。「気を遣いすぎる」から、「気を遣う」程度にレベルを下げるには、やはり「気を休める」のがベターです。
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